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攫われたディリダの追跡は、地を這う民の街の外縁――普段は堅く封じられているはずの通路から飛び出し、さらに奥へと続いていた。 石の扉の隙間からは、湿った外気がゆっくりと流れ込んでいた。 冷たく、重い匂い。 木々の葉と漂う霧は、地上特有の香りだった。 セリュオスは無意識に大きく息を吸い込んでいた。 胸いっぱいに広がる空気に懐かしさがよぎる。 だが、それは安堵とは違うものだった。「……外まで出ちまったなァ」 ガドルの呟きは、どこか掠れている。 外に出た喜びよりも、焦りと不安が色濃く滲んでいた。 それでも、ガドルは足を前に運ぼうとする。 確かに、立ち止まっていてはディリダの元まで辿り着くことはできない。 レバザが斧槍を振り回し、周囲に漂う霧を操りながらディリダの行方を探っている。 「ディリダを攫った痕跡は、この先に続いているみたいだね」 すると、レバザが示した道の先で、エレージアの指先が小さな欠片を拾い上げた。 「これは……鉱物みたいね」 掌の上で光る欠片を見つめ、眉を顰める。 「でも、なぜ鉱物がこんなところに落ちているんでしょうか? 辺りに山は見当たらないのに……」 シエルハの疑問にエレージアが首を横に振る。 「いいえ、自然にできたものとは限らないわ。魔物が体内で造り出したものかもしれないし」 セリュオスも一歩近づき、欠片を確認することにした。 硬質な鉱物は自然のものとは思えない輝きを秘めていた。 「確かに、これは自然にできたものとは思えない……。ここまで不純物の混じらない鉱物ができるのは稀だからな。……これは、敵が落としたものなのか?」「わからないけど、そもそも……誰がディリダを攫ったの?」 エレージアが周囲を警戒しながら口を開くと、沈黙が落ちた。 誰もが考えてはいたが、口に出すのを躊躇っていた疑問だった。「あっしにも、わからねェ。こんなことは……初めてだ」 ガドルの視線は前方から逸らしていなかった。 これまで魔物が侵入することのなかった地を這う民の街が、外部から明確な敵意を向けられることなど、ほとんどなかっただろう。 ましてや、特定の個人
地下街の朝は、光ではなく音で始まった。 鉱石や金属を打つ乾いた響きが洞内を駆ける。 水路を流れる水は一定の調子で岩肌を撫で、遠くで誰かが呼び交わす声とそれに応じたであろう人々の足音が聞こえてくる。 地を這う民の街は、奇妙なほど静かに明るくなり始めた。「地上では鳥が朝を知らせてくれるが、やっぱり地下の朝は静かな気がするな」 お世話になったディリダの家を出たセリュオスは通りを歩きながら、動き出す街を眺めていた。 だが、昨日と同じはずの風景、灯具、石畳、生活の気配にも関わらず、何かが噛み合っていないような違和感を拭えずにいた。「……んー。でも、妙ですね」 首を傾げながら足を止めたのは、シエルハだった。 彼は壁面に刻まれた古い紋様の前に立ち、それをなぞるように指先を動かしている。 触れるというよりも、何かの流れを追っているように見えた。「何が妙なんだ?」 「この街全体がおかしいと言いますか、昨日と比べて明らかに魔力の流れが変わっているんです」 「魔力の流れが変わった? どういうことだ?」 魔力の流れと言われても、正直ピンとこなかったセリュオスが問い返す。「ええっとですね。昨日が晴れだとしたら、今日は嵐みたいに流れが乱れていると言いますか。……つまり、何かが外から触れたような違和感と言えば良いでしょうか。少なくともこれは、内部からの変化ではありません」 シエルハは確かめるように頷いて、慎重に言葉を紡いでいく。 言いたいことがわかるようで、わからなかった。「この街に対して、外から干渉があったということ?」 シエルハの言葉を噛み砕くように、エレージアが聞き返す。 「はい、その可能性が高いと思います。しかも……これはおそらく、昨夜のうちに起こったものに違いありません」 そのやり取りを、ガドルはただ黙って聞いていた。 彼の視線はセリュオスたちには向いていない。 通りの先――街の奥へと続く道を、ただじっと見つめている。 そこでは、ちょうどディリダが歩いていた。 作業用の鎚を肩に担ぎ、昨夜まで、彼女の背中に張り付いていた棘のような緊張は、今は感じられない。 だが、それが逆にセリュオスの胸をざわつかせた。
地を這う民の街の夜は静かだが、ほんのりと明るかった。 ここでは地上で訪れる闇夜のように、太陽が沈んで自然と暗くなるということはない。 天井高く広がる岩盤の下では、通りに設置された灯具の明かりが一つ、また一つと落とされていく。 それでも、岩盤で群生しているヒカリゴケが放つ淡い光によって、街の輪郭だけが残される。 かつて、ルキシアナが生み出したはずの文明の光はそこにはなかったが、彼らはうまく自然を利用しながら逞しく生きていた。 人々の足音が減り、道具を打つ音が止み、街全体が呼吸を落ち着かせるように、ゆっくりと沈黙へ向かっていく中、セリュオスたちはディリダが暮らしているという住居に招かれ、そこでご飯をご馳走になった。 石を削って作られたのか、住居は簡素だった。 とは言え、セリュオスたちが入っても狭いと感じることはなく、一人で暮らすにはやや広すぎるような気がした。 壁には余分な装飾はなく、棚も最低限だが、角は丁寧に均されており、床にはひび一つない。 定期的に丁寧な補修をされている痕跡がはっきりと見て取れた。 空腹を満たしたことで、眠気を我慢できなくなってしまったのか、先にシエルハだけが眠りに就いた。 外で微かに聞こえていた街の音は、厚い石壁によって遮られ、室内では火石が放つパチパチとした小さな音だけが残る。「……やっぱよォ、落ち着かねぇぜ」 ガドルは壁際に腰掛け、低く呟いた。 視線は宙を漂い、どこにも定まろうとしない。「でしょうね。アンタは、昔からそうだった」 ディリダは食器を洗う手を止めずに返す。 レバザとエレージアが乾いた布を使って水気を拭き取り、彼女の手伝いをしていた。 ディリダはちらりともガドルの方を見ず、ただ淡々とした口調で告げるだけだ。「この街にいると、まるで自分の居場所がどこにもないみたいな顔をする」 「……」 ガドルは何も返すことができずにいた。 言葉を探そうとしているが、開きかけた口をすぐに閉ざしてしまう。 すると、室内は沈黙が支配する。 セリュオスはその空気を感じ取り、口を挟むようなことはしない。 エレージアもレバザも、ただ黙って彼女を手伝い続ける。 これは二人だけで向き合うべき時間だと、誰もがそう理解していた。
休息を終えた一行は再出発し、ついに隧道を抜けた。 その先で、セリュオスは思わず足を止めた。 広い、というのが最初の感想だった。 隧道の先にあったのは、単なる空洞ではなかった。 天井は遥か高く、それを支えるように、何本もの巨大な石柱が乱立している。 柱の表面には、自然にできたとは思えない加工の痕跡があり、幾何学的な紋様が幾重にも刻まれていた。 それは明らかに古代の遺構のように見えるが、その下に視線を向けた瞬間、セリュオスは目を瞠った。 石を削って作られた住居と、柱と柱の間に渡されている簡素な足場。 天井から吊り下げられた灯具が、淡い光で街全体を照らしている。 遺構の足元で、人々が生活を営んでいたのだ。 おそらく、彼らが地を這う民だろう。 ゆっくりと行き交い、荷を運び、何やら言葉を交わしながら、ごく当たり前のように生活している。 ここは遺跡でもあり、それと同時に、彼らにとっては住む場所でもあった。「……これは、驚きです」 シエルハが石柱の一つに近づき、そっと手のひらを当てる。 その表面には長い年月、人の手が触れてきた痕が残っていた。「文明遺構を保存するというよりも、さらに手を加えながら……今も使い続けているんですね……」 小さな指が、刻まれた紋様をなぞる。「崩壊させずに増築を繰り返していく文化……遺跡そのものを、生活基盤として内包しているんです……」 その真剣な声は、完全に学者のそれだった。「あっしら地を這う民は、遺跡に住んでるんじゃねェ」 少し後ろに立っていたガドルが、ぽつりと口を開いた。「“遺跡と一緒に生き続けてる”んだ」 その言葉は説明というより、事実をそのまま置いただけのようだった。 シエルハは一瞬だけ動きを止め、それから深く頷く。「……はい。そうでなければ、こんな歴史を感じる街にはなりません」 だが、ガドル自身は、それ以上何も言わなかった。 視線は街の奥を見ているようで、実際には誰とも目を合わせていない。 通りを歩く人々の中に、知った顔があるのだろうか。 ガドルはほんの少しずつ、自然を装いながら、一行の端へ移動する。 できるだけ大通りを避けるように、柱の影に隠れたがった。 セリュオスはガドルの変化を見逃さなかった。
魔物たちの群れが、背後から現れたその存在に怯えていた。 広場に散らばる魔物たちの死骸。 砕けた顎、引き裂かれた胴。 それらをいとも簡単に踏み砕いてしまう巨脚。「あれは、グランデラ・ボース……」 その威容さに、シエルハは呆然としている。 一応、エレージアが傍にいるからには大丈夫だとは思う。「なるほど、親玉の登場というわけか」 セリュオスがようやく剣を抜いた。 だが、レバザが手で制止する。「勇者は下がってろって言っただろ?」 親玉はその言葉を嘲笑うかのように、隧道の闇の向こうから完全に姿を現した。 通路に収まっていることすら驚くほど巨大な体躯。 背中には歪に結晶化した岩殻が張り付き、全身を覆う霧は、他の魔物の倍以上に濃い。 頭部には割れた仮面のような角質が重なり、その隙間から、濁った光が覗いている。 ズン……ズドン……。 それは足音というには、あまりにも低く、重い振動が伝わってきた。 まるで岩盤そのものが、呻いているようだ。「……さあ、来るよ」 レバザが低く呟いたその瞬間、 親玉が咆哮を上げた。 空気が震え、広場の壁から細かな岩片が剥がれ落ちる。 残っていた魔物たちが、一斉に色めき立っていた。「……親玉だろうが何だろうが、あっしらには関係ねェ!」 ガドルが拳を鳴らしながら、待ち構えている。 戦う気は満々のようだ。「マズいわ……!」 だが、エレージアが声を上げる。「このグランデラは……さっきまでのと格が違うわよ!」 親玉が前脚を振り上げ、地面を叩きつける。 衝撃波が走り、セリュオスの足元の岩が砕けた。「散るんだッ!」 セリュオスが回避するように叫んだが、それよりもほんの僅かだけ早く、レバザが一歩前に出ていた。「いいや」 彼女は斧槍を深く構えたまま、大地を蹴り上げる。「ここは――」 斧槍が大きく弧を描き、渦を巻くように振り抜かれた。「アタイが通さないよ!」 レバザの斬撃が、空気ごと切り裂いた。 グランデラ・ボースが纏う霧が引き裂かれ、斧槍の刃が親玉の岩殻を直撃する。 地下道内にガギ
レバザとガドルの案内で霧の森を抜け、セリュオスたちは地を這う民の隧道へと足を踏み入れた瞬間、ようやく安全地帯に来ることができたと胸を撫で下ろした――はずだった。 湿り気を帯びた空気が、肌に纏わりつく。 霧の森で感じていた刺すような冷たさとは違う、土と岩が混じった、どこか懐かしい匂いを感じる。 壁に刻まれた無数の掘削跡が、この道が自然に生まれたものではなく、長い年月をかけて人の手で作られてきたものであることを物語っていた。 ——隧道は安全だ。 ガドルはそう言っていた。 地を這う民にとって、この地中の道は生活で使われるものであり、そこを行き交うのは同じ民の仲間だけなのである。 外的である魔物が侵入することなど、滅多にないのだと。 だからこそ、隧道に入った瞬間にそれが現れることなどあり得ない。 ……そのはずだったというのに。「……いや、待て。おかしいよな?」 必死に走りながら、セリュオスは思わず疑問を口にしていた。 自分でも驚くほど、声が硬くなったような気がする。 その背後からは、確かに追跡者たちの音が聞こえていたのだ。 岩盤を引っ掻くような鋭い音。 くぐもった荒い呼吸音。 低く、粘ついた唸り声。 それは霧の森でも、何度も耳にしたものに似ている。 獲物を狩ろうとする獣たちが響かせる音だ。「なぜ俺たちは、地を這う民の隧道を――逃げるために走っているんだ?」 セリュオスが言葉にした瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。 エレージアが僅かに息を切らせながら振り返る。 額に浮かんだ汗が、隧道の中を照らす鉱石の光を反射していた。「ねえ、ガドル。あなたの口は、隧道が安全だと言っていなかったかしら?」 明らかにガドルを責める目的で言っている。 彼女の問いは重いものだった。「……本来は、な……」 ガドルの声は低く、歯切れが悪い。 いつもなら軽口の一つでも叩いているであろう男が、言葉を探すように口を噤んでいる。「……」 レバザは何も言わない。 斧槍をその手に握ったまま、ただ仲間たちの一歩後ろに位置取り、背後の闇へと鋭い視線を向けていた。 彼女の肩越しに、魔物たちの影が揺れ
祭りを存分に楽しんだセリュオスとエレージアは、中央広場の一角でルキシアナとオリヴァンが繰り広げる発明勝負を見ることにした。 そこでは、二人が互いに腕を競い合うように発明品を次々と展開している。 光を集めて拡散する装置、空中で高速回転する機械、風や光を自在に使った演出――どれもが圧倒的な技術で、見物客たちを驚かせていた。 ルキシアナは目を輝かせ、オリヴァンに向かって挑発的に言う。「これでも食らいなさい! ゼルフの力を借りて、去年よりもさらに完成度を上げておいたのよ!」 すると、オリヴァンはにやりと笑みを浮かべ、手元の装置を動かした。「フフッ……去年から成長しているのは、
岩が崩れる轟音とともに、セリュオスは暗闇に放り込まれた。 「ぅぐっ……!」 背中を打ちつけ、肺の奥から苦しい息が漏れる。 目を開けても視界は真っ暗で、何も見えない。 ただ湿った土と鉱物のような鉄臭い匂いだけが鼻を突いた。「ここは、どこだ……?」 わかったことと言えば、そこが地上ではないことだった。 冷たい湿気と圧迫感が身体を包み込む。 それからセリュオスは、とにかく光を探した。 ぼんやりと薄く明るい場所を見つけて歩いていくと、セリュオスはその光景に思わず息を呑んだ。 そこは見渡す限りの土壁の中で、空に浮かぶ太陽は存在しなかっ
荒野に剣戟の甲高い音が響き続けている。 その音の発生源となった衝撃のもとで、どれだけの土砂が飛び散っただろうか。 セリュオスの剣とアベリオンの槍が幾度となく火花を散らし、地面には数々の抉られた跡が刻まれていた。 セリュオスがアベリオンに苦戦しているのは、誰が見ても明らかだった。「……でも、どうしたら、セリュオスが迷わずに戦うことができると言うの……」 フィオラは胸元で弓を握り締め、声を震わせた。 彼女の瞳には、攻め切ることができずに膠着しているセリュオスとアベリオンの姿が映っている。「おい、フィオラ」 隣で立ち上がっ
三人は夜明けを待って、旅を再開することにした。 もちろん、ミュリナとはそこで別れることになった。 彼女が仲間になることを断った以上、それは当然のことだった……。 森を抜ける道は朝の光で照らされ、草木の露が靴を濡らす。 セリュオスは前を見据え、フィオラは小さく息をつきながらも隣を歩いている。 ダルクは無言のまま進んでいた。 皆が何か考え事をしながら、聖都への歩みを進めていた。 しばらくすると、セリュオスは後ろから小さな影がチョコチョコとついて来るのに気づいた。「……誰か、ついて来てるような……?」 振り返ると、茂みの中でコソコソと動く小さな猫のような姿







